2014年01月30日
書評:永遠の0(ゼロ) 百田尚樹 作
突っ込みどころも多く、ベタではあるが、感動できる。しかし、本書の評価がわかれるのも理解できる。しかし、決して特攻隊を美化した作品ではないと思う。
安全でリスクの少ないインプラント治療を追求する、千葉は幕張新都心のインプラント専門医、古賀テクノガーデン歯科の古賀です。本日のブログは、あのベストセラーの書評を。
売上350万分を超える稀に見るベストセラーである。しかも、それが戦争を描いた作品となれば、当然、さまざまな批判にもさらされる運命にある。
本書は、司法試験に失敗を続け、やる気をなくしたある若者へ、フリーライターをしている姉からの1本の電話から始まる話である。
その電話は、自分たちの祖父に関して調べようというものであった。その祖父は戦闘機乗りであり、特攻隊で死んだという。祖母の最初の夫であり、戦後、祖母は再婚し、現在の優しく人権派で優秀な弁護士の祖父は健在である。
その特攻隊員として死んだ祖父の名は、宮部久蔵という。太平洋戦争の開戦以前から海軍の歴戦の戦闘機を操る兵士で、零戦に乗っていたベテランパイロットであったらしい。
最初はそんな祖父をたどる取材を面倒くさがった孫の健太郎は、小遣い稼ぎのために何人かの宮部久蔵を知る老人たちとの話を重ねるうちに、祖父の人柄や当時の情勢を生の声を通して知っていくという凝った構成になっている。
命知らずの戦闘機乗りの中で、誰よりも命を惜しんだ臆病者と聞いた宮部久蔵がなぜそれほどまでに生き残りたかったのか、そして、それを阻んでいく、当時の軍部の官僚的なシステム、多くの若者達を犠牲にしていった空虚な精神論などが描かれる。
登場人物たちは、実在の人物たちを織り交ぜ、さまざまな人物を描くことで、あの戦争の問題点、日本というシステムの問題点が浮き上がるように工夫されている。
上層部の優柔不断さ、部下たちへの犠牲の押し付けが読者にうったえるごとく糾弾されている。史実でも、当時、特攻隊は、それ自身、かなり軍部、それも歴戦の勇士たちからは反対があったという。事実、自分の部隊からは一人も行かせなかった隊長も存在した。
そして、終戦間際のころ、敵も対策を講じ、ほとんど成果が上がらなくなっていたことも繰り返し述べられている。精神性を強調すると、かような無駄な若者が多く犠牲になる。
上層部は安全なところにいて、大和魂だかなんだか知らぬが、若者が犠牲になるのが美化されていく。そして、幹部たちの勇気がないこと、情けない限りである。まあ、後で振り返れば、戦争とはそういうものだ。
結局、百田氏は、本書を通じ、官僚的であった軍部のシステムが、現在の日本のシステムと類似していることを述べたかったのであろう。本来、生き残るべき多くの若者が、無駄に犠牲になったことを、現在の若者にわかりやすく伝えたいことがよくわかる。
ところが、本書は、坂井三郎の「大空のサムライ」や柳田邦男の「零戦燃ゆ」などのコピペだという非難がなされている。しかし、参考資料として巻末にあげてあるので、まあ、よしとできないだろうか。
さらに、浅田次郎の「壬生義士伝」の焼き直しだという指摘もある。私も読んでいるのでわかるが、これはたしかに、似ている。構成や登場人物のキャラなどもそっくりである。
話によると、百田氏本人が浅田氏のあの作品のオマージュであると言っているらしい。人物の書き込みが表面的であるとか、宮部久蔵の人物像が腑に落ちないなど、いろいろ突っ込まれるのも理解できる。浅田氏は黙して語らないが、あの人はそうしう大人げないことを言わないのであろうか。確かに、ちょっと恥ずかしい話である。
また、あれほど命を惜しんだ宮部が、最後に特攻を志願していく理由付けが少し弱い。ここは本書の小説としての最大の弱点であろう。
また、知っている人は気づくのだが、知覧にも展示してある記事にでてくる航空学校の教員が最後に責任を感じて特攻して見事に体当たりに成功する。
その教員は、最高の名人と言われた男であるが、不発弾であったために、爆破できない。当時の状況では、まず成功が不可能とされていた銃弾の雨の中、くぐり抜けてきた敵の兵士が米国軍の敬意を集め、死後に遺品が日本に送りかえされてきたことなどを、知覧の展示で私も読んだ。
おそらく、このエピソードを採用したと思われるラストシーンである。これも盗用と言われるのであろう。これほどのベストセラーである。あまりに売れた本は、やはり批判にさらされる宿命があろう。
ただし、この小説を、特攻隊を美化するだの、右翼的だの、戦争を美化するものとするのは、かなりおかしな読み方であろうと思う。結局、美化したいのは、歴戦の勇士であって、犠牲に潔く散っていった若者たちである。
侵略戦争が云々、なんて人たちもいるようだが、当時の時代、侵略というより、国のサバイバルのために戦争になっていたことは、歴史に興味のある読者は知っていると思う。
軍部は米国と戦争して勝てるとは思っていなかった。当たり前である。それほど、当時の幹部も井の中の蛙ではない。軍部には英語のみならず、ドイツ語やフランス語が堪能な人物も多くいたし、外国に留学していた士官も少なくなかったわけだから。
戦争へのポイント・オブ・ノーリターンは、諸説あるものの、1940年の三国同盟であったと言われることが多い。日米交渉を継続したかった近衛首相や軍部は、一部の強行派である武藤章と国際連盟を勝手に脱退した松岡洋右ら外務省’革新派’とで押し切るように同盟を結んだことで三国同盟締結に押し切られた。
もちろん、松岡らが米国と戦争して勝てると思ったのではなく、それでいわゆる連合国を包囲することで戦争を回避したかったらしい。しかし、結局、米英との戦争突入という結果になることを読んでいた吉田茂が強硬に反対したことは有名である。
しかも、その流れの端緒となった松岡ら主導の国際連盟脱退の折にも、国民は拍手喝采で迎えたが、マスコミの煽動に乗せられた民衆が、軍より好戦的になり、近衛も東條も、その流れに乗らざるを得なくなったのが開戦への真実らしい。
となれば、その日本独特の空気、これが一番こわいことになる。開戦も空気、建前上とはいえ、志願制であった特攻隊攻撃も空気によりほとんどの兵士は志願が断れない。これでは、志願というよりも絶対的な命令といって差し支えあるまい。
現在も日本は空気がその方向を決めてしまうところがある。郵政選挙といい、けしからんという空気で有罪になり収監されたホリエモンだって、その犠牲者であろう。
こうした部分、つまり、責任の所在がわからず、論理の一貫性などが問われず、なんとなく進むべき方向が決定されるという習慣が一番、日本の危ないところだと思う。
話がそれてきたので、本書に戻すが、批判もいっぱい受けており、喝采もそれ以上に受けるこの小説。それでも、私は、とても読んで面白い本だと思う。
文章が練りこまれたものがいいなら、他にいっぱい大作家がいるし、人物像のうまい描き方としては、司馬遼太郎に及ぶはずもあるまい。オマージュである壬生義士伝の浅田次郎氏など、文章は、まさに、達人であろう。
それでも、私は本書を薦めたい。面白い娯楽大作である。歴史的な価値を問うものではない。それはまた、別の本でどうぞ。大意は間違ってないと思うし、それで文献、論文の類でなく、小説なら十分であろう。
売上350万分を超える稀に見るベストセラーである。しかも、それが戦争を描いた作品となれば、当然、さまざまな批判にもさらされる運命にある。
本書は、司法試験に失敗を続け、やる気をなくしたある若者へ、フリーライターをしている姉からの1本の電話から始まる話である。
その電話は、自分たちの祖父に関して調べようというものであった。その祖父は戦闘機乗りであり、特攻隊で死んだという。祖母の最初の夫であり、戦後、祖母は再婚し、現在の優しく人権派で優秀な弁護士の祖父は健在である。
その特攻隊員として死んだ祖父の名は、宮部久蔵という。太平洋戦争の開戦以前から海軍の歴戦の戦闘機を操る兵士で、零戦に乗っていたベテランパイロットであったらしい。
最初はそんな祖父をたどる取材を面倒くさがった孫の健太郎は、小遣い稼ぎのために何人かの宮部久蔵を知る老人たちとの話を重ねるうちに、祖父の人柄や当時の情勢を生の声を通して知っていくという凝った構成になっている。
命知らずの戦闘機乗りの中で、誰よりも命を惜しんだ臆病者と聞いた宮部久蔵がなぜそれほどまでに生き残りたかったのか、そして、それを阻んでいく、当時の軍部の官僚的なシステム、多くの若者達を犠牲にしていった空虚な精神論などが描かれる。
登場人物たちは、実在の人物たちを織り交ぜ、さまざまな人物を描くことで、あの戦争の問題点、日本というシステムの問題点が浮き上がるように工夫されている。
上層部の優柔不断さ、部下たちへの犠牲の押し付けが読者にうったえるごとく糾弾されている。史実でも、当時、特攻隊は、それ自身、かなり軍部、それも歴戦の勇士たちからは反対があったという。事実、自分の部隊からは一人も行かせなかった隊長も存在した。
そして、終戦間際のころ、敵も対策を講じ、ほとんど成果が上がらなくなっていたことも繰り返し述べられている。精神性を強調すると、かような無駄な若者が多く犠牲になる。
上層部は安全なところにいて、大和魂だかなんだか知らぬが、若者が犠牲になるのが美化されていく。そして、幹部たちの勇気がないこと、情けない限りである。まあ、後で振り返れば、戦争とはそういうものだ。
結局、百田氏は、本書を通じ、官僚的であった軍部のシステムが、現在の日本のシステムと類似していることを述べたかったのであろう。本来、生き残るべき多くの若者が、無駄に犠牲になったことを、現在の若者にわかりやすく伝えたいことがよくわかる。
ところが、本書は、坂井三郎の「大空のサムライ」や柳田邦男の「零戦燃ゆ」などのコピペだという非難がなされている。しかし、参考資料として巻末にあげてあるので、まあ、よしとできないだろうか。
さらに、浅田次郎の「壬生義士伝」の焼き直しだという指摘もある。私も読んでいるのでわかるが、これはたしかに、似ている。構成や登場人物のキャラなどもそっくりである。
話によると、百田氏本人が浅田氏のあの作品のオマージュであると言っているらしい。人物の書き込みが表面的であるとか、宮部久蔵の人物像が腑に落ちないなど、いろいろ突っ込まれるのも理解できる。浅田氏は黙して語らないが、あの人はそうしう大人げないことを言わないのであろうか。確かに、ちょっと恥ずかしい話である。
また、あれほど命を惜しんだ宮部が、最後に特攻を志願していく理由付けが少し弱い。ここは本書の小説としての最大の弱点であろう。
また、知っている人は気づくのだが、知覧にも展示してある記事にでてくる航空学校の教員が最後に責任を感じて特攻して見事に体当たりに成功する。
その教員は、最高の名人と言われた男であるが、不発弾であったために、爆破できない。当時の状況では、まず成功が不可能とされていた銃弾の雨の中、くぐり抜けてきた敵の兵士が米国軍の敬意を集め、死後に遺品が日本に送りかえされてきたことなどを、知覧の展示で私も読んだ。
おそらく、このエピソードを採用したと思われるラストシーンである。これも盗用と言われるのであろう。これほどのベストセラーである。あまりに売れた本は、やはり批判にさらされる宿命があろう。
ただし、この小説を、特攻隊を美化するだの、右翼的だの、戦争を美化するものとするのは、かなりおかしな読み方であろうと思う。結局、美化したいのは、歴戦の勇士であって、犠牲に潔く散っていった若者たちである。
侵略戦争が云々、なんて人たちもいるようだが、当時の時代、侵略というより、国のサバイバルのために戦争になっていたことは、歴史に興味のある読者は知っていると思う。
軍部は米国と戦争して勝てるとは思っていなかった。当たり前である。それほど、当時の幹部も井の中の蛙ではない。軍部には英語のみならず、ドイツ語やフランス語が堪能な人物も多くいたし、外国に留学していた士官も少なくなかったわけだから。
戦争へのポイント・オブ・ノーリターンは、諸説あるものの、1940年の三国同盟であったと言われることが多い。日米交渉を継続したかった近衛首相や軍部は、一部の強行派である武藤章と国際連盟を勝手に脱退した松岡洋右ら外務省’革新派’とで押し切るように同盟を結んだことで三国同盟締結に押し切られた。
もちろん、松岡らが米国と戦争して勝てると思ったのではなく、それでいわゆる連合国を包囲することで戦争を回避したかったらしい。しかし、結局、米英との戦争突入という結果になることを読んでいた吉田茂が強硬に反対したことは有名である。
しかも、その流れの端緒となった松岡ら主導の国際連盟脱退の折にも、国民は拍手喝采で迎えたが、マスコミの煽動に乗せられた民衆が、軍より好戦的になり、近衛も東條も、その流れに乗らざるを得なくなったのが開戦への真実らしい。
となれば、その日本独特の空気、これが一番こわいことになる。開戦も空気、建前上とはいえ、志願制であった特攻隊攻撃も空気によりほとんどの兵士は志願が断れない。これでは、志願というよりも絶対的な命令といって差し支えあるまい。
現在も日本は空気がその方向を決めてしまうところがある。郵政選挙といい、けしからんという空気で有罪になり収監されたホリエモンだって、その犠牲者であろう。
こうした部分、つまり、責任の所在がわからず、論理の一貫性などが問われず、なんとなく進むべき方向が決定されるという習慣が一番、日本の危ないところだと思う。
話がそれてきたので、本書に戻すが、批判もいっぱい受けており、喝采もそれ以上に受けるこの小説。それでも、私は、とても読んで面白い本だと思う。
文章が練りこまれたものがいいなら、他にいっぱい大作家がいるし、人物像のうまい描き方としては、司馬遼太郎に及ぶはずもあるまい。オマージュである壬生義士伝の浅田次郎氏など、文章は、まさに、達人であろう。
それでも、私は本書を薦めたい。面白い娯楽大作である。歴史的な価値を問うものではない。それはまた、別の本でどうぞ。大意は間違ってないと思うし、それで文献、論文の類でなく、小説なら十分であろう。