2014年03月25日

映画評:友だちと歩こう  緒方 明 監督作品



意味や内容を鑑賞者に委ねる行間あふれる作品。ご近所ロードムービーとは、よく言ったものだ。

安全でリスクの少ないインプラント治療を追求する、千葉は幕張新都心のインプラント専門医、古賀テクノガーデン歯科の古賀です。本日のブログは、映画評を。

高校の同級生である緒方明監督の新作。新宿まで朝から観に行ってきた。高校時代から感性鋭く、体制におもねらない独特の個性を持っていた彼。

ゆえに、生きてきた道程も平凡な人生を歩まず、独自の道を選んできた男である。その緒方監督、50代という、監督としても人間としても少し熟成が進んでからの「道」を描く作品を完成した。

「道」という言葉が含有する意味の中には、時に人生を表す比喩もあれば、日々の生活を示す暗示もあろう。本作は、われわれ観る側に監督自身が投げかけてきた「道を歩くこと」を人生の一コマとして考えさせる作品になっている。

オムニバス形式で4つの話(一話:煙草を買いに行く、二話:赤い毛糸の犬。三話:1900年代のリンゴ、四話:道を歩けば)で構成され、それぞれ時間差があるのだが、独立した話のようで実は微妙につながっている、なんとも、ゆるい構成である。

第一話の登場人物は郊外の団地に住む一人暮らしの老人、富雄と国男。二人とも、足が悪い。しかも、富雄は4階建てのエレベーター無しの部屋に住んでおり、下に降りるのさえ大変である。

なのに、二人は少年のように、お互いを、国ちゃん、富ちゃん、と呼びあい、いつも仲良く煙草を買いに行くのであった。国雄は不自由な足を今にも転ぶように、富雄は杖をついて片足を引きずりながら歩く。

かれらの行く道は、健常者にはちょっとした距離の散歩でも、大変な「旅」である。それでも、友だちと歩けば楽しいのであろう。この道には、ちゃんと仲間がいる。それが伝わる映像だ。足が悪く、金銭的にはも困窮した独居老人二人、友人と歩く道があるだけなのに、決して不幸には見えない。

ある日、ひょんなことから、団地の4階から飛び降りて助かった若い女の子と一緒になる。その女性、イトは、飛び降りて足を骨折し、松葉杖をつきながら郵便局に行く用事がある。老人二人と途中まで同じ方向なので、この二人の老人と一緒に歩くことになる。

先を歩く、そのカワイイ女の子のお尻を見つめる老人二人は、「いいケツだ。触りてえなあ。」「このスケベジジイ!」などと、お互いに卑猥な軽口をホザキながら懸命に歩く。いくら松葉杖であるとはいえ、若い女性の歩みに、ついていくのがやっとである。

しかし女性のお尻をじっと見つめていると、俄然、二人に力がみなぎり、必死に歩き始めるのである。男のなんとも滑稽で哀しい性(サガ)と、なんであれ目標というものがいかに人生に大切か、コミカルに表現するごときシーンである。人生には、時に人参を目前にぶら下げられるのも必要だよ、という意味かもしれぬ。

第二話では、ちょっと幼稚な感じの30代の腐れ縁的な男たちが登場する。その二人、トガシとモウリは、モウリがかつて家庭から逃げてきてしまった田園風景の道を、歩いている。

その先には、モウリが10年前に250万円で買ったというみすぼらしい一戸建てに、おそらく今も妻が住んでいるだろうとのこと。今さらではあるが、怖いもの見たさということで、トガシにつきあってもらい、駅から歩いて元の妻を訪ねる。

先祖代々の土地でもなければ、働くところも遊ぶところもない雰囲気の田舎である。モウリとトガシが住んでいる都会と違い、時が止まったような田園風景は、おそらく今も同じような暮らしをしている前妻がいることを暗示する。

「道」といっても、かように、あまり思い出したくない過去に続く場合は、その「道」が楽しいものには見えてこない。迷いながら、ようやくたどり着いたら、いかにも人生を失敗したような、頼りなげな風采の上がらぬ男が家の庭にいた。

結局、その男も元女房の家に転がり込んで養ってもらう情けない男であった。そして元の妻は、モウリに冷たい態度。そりゃ、当たり前であろう。そして、なんと元妻には娘がいるのに気づく。慌てるモウリ。妻は、冷たく、「あんたの子じゃないよ。まったく、あんたは、死んでてくれてないと困るんだよねえ。」なんて、言葉を返す。

あまりの寒い雰囲気に、いられずに先に家を出て行くトガシ。ついでに、なぜか、情けない同居人を誘って連れ出すのであった。その男も、居場所をなくすことを恐れているだけの男である。

モウリは、前妻とその娘と一緒にカレーライス食べていたが、自分の居場所がないことをひしひしと実感し、静かに家を出て行く。結局、元の家に続く道は、自分がたどる道ではなかった。さきに、出て行って待ってくれている、ぶっきらぼうなトガシの待つ駅へと、これまたモウリの心中を暗示するがごとく、暗くなり足下が見えなくなった夜道をとぼとぼと歩くのであった。

本編には、さまざまな道が出てくる。どれも、ごく普通の道であり、そこには、特に恵まれた人もいなければ、ヒーロー、ヒロイン的な人物も出てこない。

しかし、そこに道があり、歩く仲間がいるだけで、なんらかのストーリーが紡ぎだされる。時に、転んで、河川敷に転げ落ちる。そこから這い上がる10メートルの坂(道)は、足の悪い老人にとっては、すでに冒険であり、未踏の登山である。

仲間を探して海辺を歩けば、一緒に歩く男二人は、単なる知り合いから仲間に変わっていく、畢竟、こうした日常にある小さなエピソードの連続と蓄積で、人生は構成されていくのかもしれない。

本編を見終わって、緒方くんが待ってくれており、一緒に飲むことになった。思わず、私が彼につぶやいたのは、「この映画、ずいぶん、余白が広くてさ、解釈がいかようにもできそうだった。どういう意味なのか、聞きたいこと、いっぱいできちゃったよ。」

彼の答えは、「映画は、観る人がどう解釈してもいい。こういう映画もアリじゃないかと思って作ったんだよ。勝手に解釈してもらって結構。そう思って作ったから、お前の思うとおりに感じていいさ。」と突き放した言葉であった。

つまり、人が歩けばそこにその人なりの道が生じ、仲間ができる。道の記憶こそが過去の人生なのだが、その価値は、各人の解釈に委ねられているのであろう。よって、自らの人生の禍福、それは本人の判断でいいではないか。そういう思いが浮かんでしまう。

ゆったりとした時間が流れる映画は、ハリウッドの見せ場の見本市のごとき映画とは異なり、かような雑念のような想念の流れをも、鑑賞中に許容させてくれるのであった。

その後、夕方まで、緒方くんとゆっくりと飲んで、映画の話やよもやま話をした。観た後もずっと考えさせられ続ける映画、不思議な本編を是非、観に行ってみてくださいな。東京は、「テアトル新宿」にてやっております。


taketo_koga at 14:45コメント(0)トラックバック(0) 
映画 

トラックバックURL

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
記事検索
livedoor プロフィール

taketo_koga

歯科医師の古賀と申します。歯科インプラントの専門家です。オフィスのホームページもご覧ください。

ギャラリー
  • 2013年後半の自分史報告 その3
  • 2013年後半の自分史報告 その3
  • 2013年後半の自分史報告 その3
  • 2013年後半の自分史報告 その3
  • 2013年後半の自分史報告 その3
  • 2013年後半の自分史報告 その3
livedoor ピクス
本ブログパーツの提供を終了しました
QRコード
QRコード